刹那主義至上主義

こいついつも推敲してないな

【さよ朝感想】ぼくのヒビオル【ネタバレ注意】

 ぼくはこの作品を見ながら、ヒビオルを織っていた―-。

 

 どうも、普通に生きられないそるにゃんです。生きることが嫌いです。嫌いじゃないな、辛いって言うべきかも、分かんないけど、とにかく、辛いものを見るのが嫌なので生きることが嫌です。さっさと「死ぬまでにやりたいことリスト」を消化しきって死にたいと思っています。今日はそんなぼくの「さよならの朝に約束の花をかざろう」の感想です。ぼくの感想なので、ぼくの話が多いです。あと、まだ作品を見ていない人はこの記事を読まないでください。

 

 

 

 

 

 ぼくはこの作品を見ながら、ヒビオルを織っていた。ヒビオル、つまり、これまでのぼくの人生の出来事と、それに対する想い。自伝って言ってもいいかもしれないけれど、自伝には多少の私的な脚色や誇張表現が含まれているイメージがぼくにはあるので、履歴書って言った方がいいかも。こっちの言葉の方が、なんか生活に馴染みのある言葉のような気がするし。

 この映画を見ながらぼくはぼくのヒビオルを織っていて、そしてそのヒビオルをだれかに読まれていた。

 ぼくはこの作品を見ながら、そういう感覚に襲われていた。ぼくにとって、そういう作品だった。

 この作品は、マキアという視点を通してエリアルの一生を描いてくれている。マキアがエリアルと出会う日から始まって、マキアがエリアルと別れる日で終わる。だから、ぼくはエリアルの一生をこの目にした。

 だから、ぼくはぼくのヒビオルを織っていて、そしてそのヒビオルをだれかに読まれていた感覚に襲われていた。ぼくはだれかに、エリアルの一生とぼくの一生を比較されている感覚に襲われていた(より正確に言うなら、エリアルに限らず、すべての登場人物と比較されていた、なのだけれど)。ぼくはシーン毎に「マキアはこう生きたぞ。エリアルは行為来たぞ。おまえはどうなんだ」ってだれかに咎められていた。

 ぼくのヒビオルは、全然立派なものじゃない。それは平凡や普通や在り来たりって意味じゃなくて、たくさんの罪と言い訳で汚れているって意味。

 これまで、ぼくはたくさんヒビオルを汚してきた。たとえば、イジメを見て見ぬふりしたこと、好きな人に告白する勇気がないことを「ぼくは彼女の隣に立つ資格はない、もっと良い人がいるはず」って逃げたこと、勉強して国公立の大学を受ければいいだけなのに受験に失敗するのが怖くて就職に逃げたこと、辞める必要なんてなかったのにもっと自由に生きたいからなんて言って仕事を辞めたこと、仕事を辞めたあとゲームばかりしていること、働くのが怖いだけなのに生きたいように生きているだけって言っていること、これ以上辛いことを経験したくないから死にたいって言ってること、ぱっとあげるだけでもこんなにもたくさんある。きっと、ぼくが忘れることにしたもっと黒い過去だってあるはず。

 だから、ぼくはこの作品を見ているのが辛かった。みんなの生き様が、ヒビオルが綺麗だったから。

 みんな綺麗だった。それは心中を試みたクリムだって例外じゃない。ぼくがクリムだったら、レイリアのことは忘れてる。絶対に思い出さないように遠く遠くの世界の果てまで逃げて、それで一生思い出さないように、そんなヒビオルなんてなかったって言って生きる。ぼくなら、そうする。けれど、クリムは違った。どんなになってもレイリアを追い求めた。レイリアが他人の赤子を孕んでいても追い求めた。これまでを全部清算してあげるからこれからを生きようとまでクリムは言ったし、それができないなら、一緒に死んでやるって言った。その心中は絶望したからじゃない。クリムは死ぬ最期の瞬間まで、レイリアを綺麗にする一心で生きていたのだ。だから、クリムは美しいのだ。

 そういう風に、この作品はたくさんぼくに問うてきた。たくさんじゃない、全部だ。全部のシーンが、ぼくに問いかけてきた。おまえの人生はどうなんだって。タンタンとリズムを刻むように作品内の時間は進んでいって、淡々とぼくを絞め殺す物語が紡がれていく。そういうストイックな雰囲気を持った作品だった。そういうストイックさが、この作品を惹き立てているのだと思った。淡々と描かれているからこそ、みんなの生き様が美しく映えているのだと思う。

 

 さて、そんな作品に触れたぼくだけれど、ぼくはこれから、どうやって生きようか。どんなヒビオルを織ればいいのだろうか。

 これまでのぼくは、ラシーヌのような生き方をしてきた。「もし、このイオルフを出ることがあれば、外の世界で誰も愛してはいけない。愛しては本当の一人になってしまう」ラシーヌはそう言っていた。ぼくもそう思ってた。この世界で生きていれば生きているだけ、だれかに、なにかに触れていくのが人生だ。けれど、ぼくは触れるたびに、傷ついてきた。だから、いまは精一杯なににも触れないように生きている。

 さっき言った「もっと良い人がいるはず」という恋愛観は、これの一例で、ぼくが他人に干渉するのが怖いが故に獲得した恋愛観だ。ぼくは好きな人が他人の赤子を孕んでいるなんて事態に遭遇したくないから、彼女をつくらない。ううん、そんな大きなことじゃなくて、もっと小さなこと、単純に、ぼくは女の子に振られるのが怖いから、恋愛をしていない。

 恋愛だけじゃなくて、仕事だってそう。ぼくは、仕事ができない自分が見たくないからいつまでもニートなのだ。アルバイトすらまともにできない自分という予想できる光景を見たくないから、最初から働こうとしないのだ。

 そういうわけで、ぼくは怖いものに、見たくないものに蓋をして生きている。別れの一族が外の世界に出ずに暮らしているように。

 けれど、マキアはぼくにこう言った。

「愛して、よかった。」

 この世界にはあるのだろう。愛してよかったと言えるなにかが。生きていればいつかは見つかるのだろう。ぼくはまだそれを見つけていないけれど。ううん、もしかしたらもう出会っているのかもしれないけれど、ぼくはそれがなにかを気付いていない。

 ここで、イゾルの話をしよう。

 イゾルという人物が、実はぼくはかなり気に入って好きだ。あんまり画面にフォーカスされたキャラじゃなかったように思うけれど、結構思い入れがある。

 イゾルはメザーテの繁栄と衰退を見てきた人物で、その最期を「皮肉だな」と語る男だ。そして、レイリアの生き様をずっと傍で見てきた男だ。

 そんなイゾルはきっと、レイリアに惚れている。そう直接語られたシーンがあったかどうか、覚えていないけれど、ぼくはそう思っている。そして惚れた原因は、レイリアの「なにもかもを奪われてもなお母親として生きようする」姿だと思っている。

 そんなイゾルの人生は、最初から最後まで兵士だった。彼は兵士として生き続けた。

 イゾルはきっと、その手でレイリアを救うことができた男だった。その気になればレイリアを連れてメザーテから逃亡することもできただろうし、レイリアのクリムを想う気持ちを汲み取ってあげてクリムに協力することだってできただろう。

 けれど、それでも、彼はそれをせず、ただの兵士としての人生を歩む。

 そして、皮肉なことに、この物語は「レナトがレイリアを連れ去る」という出来事で終わる。レナト、つまり、飛べるくせに飛ばなかった、レイリアの言うところの「弱虫」だ。そんなレナトが飛んで物語が終わる。

 イゾルの人生は、マキアの真逆を描いている。彼の人生はどこまでも、愛すればよかった、であると言えるだろう。

 そんなマキア、イゾルの二人を通して、ぼくは「だから、ぼくも、【愛して、よかった。】と言えるようなこれからを生きていこう、ヒビオルを織っていこう」と言ってこの記事を締めたら綺麗なのだろうけれど、今日のぼくは正直に言います。

「それでも明日のぼくはきっとラシーヌのように生きる気がしている」

 なぜって、ぼくはまだ生きる理由を持っていないから。愛するものを持っていないから。マキアだって、あのときエリアルの泣き声が聞こえなかったら死んでたでしょ。ぼくはそう思うよ。

 生きる理由が分からない。ううん、正確に言うなら、いまはある。ぼくは書きたい小説があるから、それを書くまでは生きたいと思う。けれど、それは食っていくという意味の生きるとは程遠い。ぼくはそういう意味での生きるために、働かなくてはならない。ぼくのこの気持ちは、まだそれほど強いものじゃないから、きっと働くという重圧に圧し潰されてしまうと思う。だから、それなら死んだ方がいいかなって思ってしまう。ラシーヌのように生きてしまう気がする。岡田麿里がぼくのこの気持ちを知ったら悲しむだろうか。それは嫌だな。

 生きるとか死ぬとかの話をしたけれど、この作品にはもうひとつ大事なテーマがある。もうひとつっていうか、こっちの方がメインな気もするけれど、それは母親について。

 はっきり言って、ぼくにはマキアやレイリアが生きていることが理解できない。

 ぼくはだれかのために生きることができない。ぼくは自分のことで精一杯なのだ。ぼくがどれだけ弱い人間なのか、ここまで読んだら少しは理解してできると思うけれど、ぼくは他人の幸福を自分の幸福にできないのだ。自分に直接的に降りかかる幸福しか満たされないのだ。好きな人と引き裂かれて、赤の他人の、ましてや自分の人生を無茶苦茶にした原因側の人間の子を孕まされて、それでも、その赤子を生きる理由にするなんて、ぼくには絶対にできない。そんな強い人間じゃない。そりゃもちろん、レイリアだって最初は諦めと自傷が動機だったかもしれない。クリムに「他人の子を孕んだわたし」を見せたくなかったから別れを選んだのかもしれない。けれど、それから、彼女は生き続けた。その後、すべてを赦すから一緒に行こうってクリムに直接言われてもなお、彼女は子供のために生きることを選択した。ぼくにはレイリアがメドメルのために生きる理由がまるで全然分からない。それがきっと、母親だから、なのだろうけれど。

 母親という肩書きの強さが、ぼくには分からない。

 ぼくの母親も、きっとぼくのために生きているのだろう。ニートのぼくを家から追い出すこともせず、毎日ご飯だって作ってくれる。

 ぼくはニートで、母親は労働者。

 だから当然だけれど、ぼくは母親に「いってらっしゃい」と「おかえり」を言っている。

 これ、すごく辛いんですよ。なんでぼくが見送ってんだろうって思うんですよ。ぼくが働きに出て、母親を家に居させるのがぼくの役目じゃないのかって、すごく思うんですよ。だからマキアが「いってらっしゃいエリアル、夕飯までには帰ってくるんだよ」って言うだけで泣いちゃったんですよ。どうしてぼくは見送ってんだろなあ、どうしてこうなったんだろなあ。ほんと、どうしてこうなった、わかんねえよ、ぼくが一番わかんねえよ。なんでぼくは普通に良きらんねえんだよ。意味わかんないよ。なんでこんなにもごめんって気持ちで溢れてるのに、ぼくはそれでも働くのが怖いんだよ。自分が弱すぎて意味わかんねえよ。それに、ごめんって思ってることもさ、伝えなきゃいけないのに、伝えなきゃ伝わないのに、行動で示さなきゃ意味なんてないのに、どうしてごめんさえいえないんだよ。こんなぼくでごめんねって親に言うことさえ怖いんだよ。毎日吞気な顔してアニメ見て夕飯食うのが精いっぱいなんだよ。いいよなエリアルは、ラングとの会話をこっそりマキアに盗み聞きされてて。でもエリアルは行動で示したもんな、ぼくがエリアルにキレていい理由なんてひとつもないわ。

 はーーーーーーーーーーーーーーーーーー、生きるのがつらいわ。しんどい。どうやって生きりゃいいんだよ。生きるってなんだよ、わかんねえよ。ぼくのこれまでの人生、散々汚れてきたから、ずっと汚れてしかなかったから、どうやって綺麗にしていけばいいのかさえわかんねんだよ。普通に生きるってことが分からないんだよ。ううん、嘘、どうしたらいいのかはわかってんだよ。働きゃいいんだよ。けど、ひとりで立つのもう無理なんだよ。甘えかもしれんな。甘えって言うんなら、甘えなんだわ。でも、無理なもんは無理なんだわ。ぼくは強くない。レイリアみたいに、それでも生きるなんてことできない。飛べねえんだよ。ぼくは怖いんだよ。

 なあ岡田麿里、ぼくはどうしたらいいんだよ。めんまをぼくに見せてくれよ。ぼくに分かり易い形で生きる理由をくれよ。この映画見てさ、ずっと泣いててさ、いまこうやって書いてるときも泣いててさ、滅茶苦茶辛い気持ちになってもさ、それでもまだ、一人で立つことができないんだよ。そりゃ、少しは思ってるよ。ゲームアプリは封印したもん、3月は頑張って小説かくもん、電撃に応募するもん、それで4月からは働くもん、そういう風に、がんばろって思ったし思ってるの。けどさ、それでも怖いの。小説書けたら死んでいいかって思ってるの。ぼくが4月から生きる意味あるかって思ってるの。そもそも、3月頑張ってずっと生きられるかすら怖いの。小説完成しなかったらどうしよって思ってるの。でもこの作品が言うには、生きなきゃダメなんでしょ。ぼくは、この作品のおかげで人生変わりましたって言いたいの。なんでって、この作品が好きだから。この作品がきっかけだったって言いたいの。だから、頑張るわ。エリアルみたいに頑張って生きるわ。おれもさ、母さんを守れる人間になりたい。

 

 だからさ、とりあえず、明日の夕飯さ、美味しいってしっかり言葉にするわ。それで、3月はせいいっぱい小説書いて、4月から頑張って働く。それでいいかな、いきなり全部できるほど強い人間じゃないから、一個ずつ、やってみるわ。 

 

 

ごめん、こんな記事にするつもりなかったねんけど、感情昂ってこんなんいなってもたわ。でも、これがぼくのヒビオルやから、許してくれ。

あ、ぼくな、東地さんの美術めっちゃ好きやねん。画集出してくれてほんまありがとう。

f:id:egoisticat:20180301000340j:image